地獄見の所兵衛伝説

 元禄年中(十七世紀末)のこと、宮城郡岩切村の内の苧山(俗に青麻と呼び苧の異名)での新田開発を望む百姓は申し出よ、とのお触れが出されたときに、岩切轟き橋の辺りに所兵衛いう者がいて、このお触れに応じて青麻に居住していた。
 ある日、行脚の僧一人がこの地に来て投宿を乞うた。所兵衛は貧しかったが、その求めに応じ、僧はしばらく投宿した。
 やがて、その僧が所兵衛に言うことには、「自分は貧しい旅の者であり御礼の物とてない。今宵その礼をしよう、私のそばで休みなさい。」といって、衣の袖で所兵衛の顔面を覆った。そうすると、夢となく現となく僧に導かれて百三十六地獄を巡見したのであった。
その僧は、「自分は源義経の家臣であったが、長命の術を得て僧となり名を清悦坊と申す。今回の事は絶対他人に言ってはならぬ。」と言って去った。
 所兵衛は、何とも不思議なこともあるものだと思いつつも、生き仏と思い敬った。僧は、度々訪れては投宿していったという。
しかし、あるとき所兵衛は、思わずこのことを親しい友に打ち明けると、やがてこの話しは近隣にも漏れて、老父老媼が聞き伝えて、月待日待の夜もすがら、所兵衛を呼んで地獄物語を頼んだ。
 この話が広まり、仙台の城下にも聞こえて、士太夫や歴々たる閨門にも招かれて話すようになり、地獄見の所兵衛と呼ばれた。このことにより、家が潤うようになったという。そこで、洞窟中に仏像三体を納め三光の窟と称し、彼の清悦坊と併せて青麻四所権現と幟をたてて祀ると、中風除け・敗酒除けに験しありとて参詣する者がすこぶる多くなり、所兵衛の子儀右衛門に至り、堂社鳥居など社の佇まいを調えていった。
 後の神官鈴木對馬(寛政期・十八世紀末の人)の先祖の話しであるという。


2025/05/09(金) 14:12 UNARRANGEMENT PERMALINK COM(0)

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